日本の評判

世界は日本をどう見ているか。 英語と中国語のメディアから日本に関する記事をとりあげ、考えます。

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“言論統制”

わたし(nippyo)がkom’s log というブログのコメント欄に投稿したものを採録します。


nippyo
『お邪魔します。ワシントンポストのサイトについているリンクからたどってきました。私も同じ記事について書いたので読んでみてください。
http://nippyo.blog57.fc2.com/blog-date-20060829.html』

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kmiura
『はじめまして。nippyoさんの記事から引用します。

”政府に属する機関が発行している刊行物が政府批判を行っているとしたら自己矛盾もはなはだしいことで、税金の無駄遣いだとして批判されるのは当然だ。執筆者や編集者は、批判があるならまず政府関係者に直接進言すべきで、聞き入れられないのなら抗議の辞任をして民間の自由な立場から政府を批判するべきだ。日本ではそれが許されている。だから日本国際問題研究所(JIIA)が批判を受けて記事を取り下げたのは何も驚くべきことではない。驚くべきなのはむしろJIIAがそのような記事を載せたことのほうだ。”

わたしは記事の取り下げは驚くべきことだなあ、と思います。政府内部でも大いに批判は行うべきだし、その議論の内容に日本にかかわる人間がすべてアクセスすることができる、というのが理想だと思います。政府という機関の内部にいる人間がその属する組織を批判することを禁じる、というのは私はおかしいことだと思う。矛盾を抱え込んで一歩一歩すすんでいく、というのが私のイメージ。』

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nippyo
『それはそういう考え方もあるということでかまいません。そのことで強く主張しようとは思いません。日本政府からは補助金をもらっているだけだという指摘もありましたね。お読みになればわかると思いますが、あの記事で強調しているのは小森氏が右翼テロリストの一員であるかのような、日本に思想統制があるかのようなクレモンス氏の記述に問題があるということです。そっちの肝心の本論のほうは賛成していただけるのでしょうか。』

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kmiura
『お答えする前に質問します。1935年から1945年の日本に思想統制はあったと思いますか。』

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nippyo
『記事をお読みになればお分かりのとおり、私もクレモンス氏も1930年代に思想統制があったことを前提に話をしています。↓
「この記事には、1930年代に思想統制とテロが同時に横行したことを取り上げて両者を混同させようとしている気配がある。」
http://nippyo.blog57.fc2.com/blog-entry-23.html
わかりきったことを質問する前にやるべきことがあるのでは。』

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kmiura
『たとえば当時の蓑田胸喜の言論活動はnoppyさんの言う”思想統制”に含まれるのでしょうか。彼は具体的なテロ活動はおこなっていませんが、イエロージャーナリズム的な形で大学における言論活動に圧力をかけました。蓑田胸喜自身が当時の政府の工作員だった、といった気配はないので、彼は自分の意志でそうした活動をおこなったわけです。効果は実にあらたかで、ずいぶん大勢の真摯な学者が大学から追放され、結果として翼賛体制が強化されていったわけです。つまり、ハードな意味の統制によって批判を禁じたわけではないのですが、批判をすることを実に低次元な見方から糾弾することでソフトに(環境型ともいいますが)統制がおこなわれたわけです。
件のWPの記事は、批判をうけて日本国際問題研究所がサイトを一時的に閉鎖していることに、驚くほど素直だ、素直すぎる、というようなコメントをしています。私からすれば、これは日本ではよくあることだなあ、と思います。面倒なことにはなるべくかかわらないようにする、あるいは、問題がおきたらその問題の場自体を隠蔽する、という反応です。じつに日本的なはからいかたなので、アメリカ人は異様にうつるのでしょう。でも、こうした問題や対立を嫌う傾向が、上で述べたような”ソフトな統制”の駆動メカニズムの一部なのではないか、と私は思います。こうした形での統制については第二次世界大戦後にずいぶんと多くの学者や研究者が頭を悩ませ、いろいろな論考がありますが、いまだにクリアーな定義はないのではないでしょうか。これは日本の人間が考え抜くべきテーマのひとつだと思います。
クレモント氏はおそらくこうした詳しい背景をよくしらないと思います。したがって、それを言い表す言葉として、”軍国主義”や”思想統制”といったシンボル的な表現にとどまっているのだと思います。そこで、私はクレモント氏の記事は見方が単純だな、とは思いますが、コモリ氏の活動は上に説明したようなソフトな統制に含まれる、と思います。さらにえば、クレモント氏が指摘しなければ私はそのことをしりえなかったので、よい記事だな、と思っています。』

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sivad
『もっと「空気を読まない力」を醸成しないと、日本で「自由な議論」てのは難しいですね。』

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nippyo
『昔の話を持ち出しても結局、小森氏が右翼テロリストの一員であるかのような、日本に思想統制があるかのようなクレモンス氏の記述が正しいことを証明できませんでした。あなたは気がついていないようです。彼がやったような事実に基づかない非難攻撃はあなたが“言論統制”の事例としてあげたものと同種であること、攻撃されているのが自分の気に食わない人物であるからといってそれを容認することがいかに危険であるかということ。その意味であなたはイェロウジャーナリズムが効果を表す世界の住人です。』

#
nippyo
『「コモリ氏の活動は上に説明したようなソフトな統制に含まれる‥」
もう一度古森氏の記事を読み返したほうがいいでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/kaz1910032/d/20060812』

#
kmiura
クレモント氏の記事について。
一昨日のコメント欄より。

nippyo 『昔の話を持ち出しても結局、小森氏が右翼テロリストの一員であるかのような、日本に思想統制があるかのようなクレモンス氏の記述が正しいことを証明できませんでした。あなたは気がついていないようです。彼がやったような事実に基づかない非難攻撃はあなたが“言論統制”の事例としてあげたものと同種であること、攻撃されているのが自分の気に食わない人物であるからといってそれを容認することがいかに危険であるかということ。その意味であなたはイェロウジャーナリズムが効果を表す世界の住人です。』

# nippyo 『「コモリ氏の活動は上に説明したようなソフトな統制に含まれる‥」

もう一度古森氏記事のを読み返したほうがいいでしょう。

http://blog.goo.ne.jp/kaz1910032/d/20060812』

というわけで、もう少し詳しく説明する必要がありそうなので、あらためて書きます。

まず事実関係。サンケイのコモリ氏(古森義久)はJIIAの理事長であるサトウ氏(佐藤幸雄)に、コイズミ首相のヤスクニ参拝を批判するような文章を書くようなフトドキ者(すなわちタマモト氏=玉本偉、英文編集長のことですが)を援助するために日本の税金を使ったことに謝罪せよ、と要求しました。また、それに応じてサトウ氏は24時間以内に当該サイトを閉じました。サトウ氏に対する文章は「公開質問状」として上記nippyoさんのリンクでみることができます。

この経緯に関する情報は、クレモント氏によるワシントンポストの記事以外にも、アジアタイムスが記事にしています。

Open debate under threat in Japan By Sheila A Smith and Brad Glosserman

クレモント氏のワシントンポストの記事における、コモリ氏の評価にあたるのは次の部分です。

What's alarming and significant about today's intimidation by the right is that it's working -- and that it has found some mutualism in the media. Sankei's Komori has no direct connection to those guilty of the most recent acts, but he's not unaware that his words frequently animate them -- and that their actions in turn lend fear-fueled power to his pronouncements, helping them silence debate.

The Rise of Japan’s Thought Police

By Steven Clemons Sunday, August 27, 2006; Page B02

なお、クレモント氏は自分のブログも持っています。そこでも今回の件について触れている。

japan’s Right Wingers Out of Control @ The Washington Notes,

このブログでは、コモリ氏の評価は以下のようにもう少し詳しく書かれています。

I know both of these writers/intellectuals -- and Komori has established a kind of franchise on the debate about Japan's historical memory. He is the authoritative right-wing commentator on the politics of Japan's war memory and on Japan-China relations. He's part of a group that understandably argues that Japan needs to get beyond its kow-towing to China and other nations in the region over World War II -- particularly given the behavior of the Chinese government towards its own people in the 1960s and 1970s.

他にもウェブ上でクレモント氏は関連して以下のような記事を書いています。Japan ― trend: right-wing nationalism

さて、それではクレモント氏はコモリ氏をnippyoさんがおっしゃるように「右翼テロリスト」扱いしているでしょうか?記事を読む限りコモリ氏が右翼である、とは言っていますが、テロリスト、とはいっていない。記事の中にはテロリストという単語は一度もでてきません。もちろん、テロリスト、という単語が911以降政治的に使われることが多く、その意味がくるくると変わってしまう実に微妙な便利すぎる言葉であり、言論を生活の糧とするクレモント氏はその用法に慎重にならざるを得ないでしょうから当然です。では「右翼」はどうでしょうか。コモリ氏の文章を読む限りコモリ氏自身は自分のことを右翼だと自己規定していません。どちらかといえば、それが「普通である」という考え方をしているように見えます*1。したがって、自己規定と他者による評価が分かれることになりますが、私にもコモリ氏の意見は明確な右翼と思えるので、クレモント氏を支持します。

上記引用にあるように、実際に手を下した行動派の右翼とコモリ氏とは直接コンタクトはない、といっています。ではクレモント氏がなにを問題にしているのかというと、コモリ氏の言論は行動派の右翼のアクションの引き金になっている、一方で、行動派右翼の実力行使が逆にコモリ氏の言論に実質的な権力を与えているというメディアを介した相互関係を問題にしているです。はたしてこの関係性は論証可能なのでしょうか。これはしかし、恋愛関係を証明しろというようなもので、問題設定がまちがっている。蓋然性の話なのです。だから先日のコメント欄で、私は蓑田胸喜の例を挙げました。蓑田は実際にはなにも手を下していない。しかしながら、言論と暴力の相互の関係から、蓑田胸喜のペンの権力は戦前の帝国大学教授を何人も更迭させるほどの力を得たのです。これをもって「蓑田胸喜はあの時代のテロとは関係がなかった」と今の時代の私たちは評価するのでしょうか。

私はコモリ氏だけではない、と思います。この10年ですっかり右傾化した日本の言論状況が -もちろんその右をいっている人たちは自分たちが”普通である”と主張していることも承知ですがー、実際の実力行使となってたとえば加藤紘一の実家の放火を図らずも促しているのではないか、と思います。そしてこうしたむちゃくちゃな行為がさらに「口寒し」な状況を加速させ、”普通である”はずの主張に威光を与えるのです。私はこれを事実上の思想統制(あるいはクレモント氏の言葉を使えば思想警察、ですが)である、と考えますnippyoさんは、このクレモント氏の批判自身こそ思想統制ではないか、とおっしゃりますが、決定的な違いはコモリ氏はその実家を放火されることはおそらくないだろう、ということです。一方で、タマモト氏はヤバイかもしれませんね。

なお、ここで私のいう思想統制がいかなるものであるのかをもう一度確認するため、私がコメント欄に書いたことを再掲します。お名前を間違っていたので、その部分訂正しました。

たとえば当時の蓑田胸喜の言論活動はnippyoさんの言う”思想統制”に含まれるのでしょうか。彼は具体的なテロ活動はおこなっていませんが、イエロージャーナリズム的な形で大学における言論活動に圧力をかけました。蓑田胸喜自身が当時の政府の工作員だった、といった気配はないので、彼は自分の意志でそうした活動をおこなったわけです。効果は実にあらたかで、ずいぶん大勢の真摯な学者が大学から追放され、結果として翼賛体制が強化されていったわけです。つまり、ハードな意味の統制によって批判を禁じたわけではないのですが、批判をすることを実に低次元な見方から糾弾することでソフトに(環境型ともいいますが)統制がおこなわれたわけです。

件のWPの記事は、批判をうけて日本国際問題研究所がサイトを一時的に閉鎖していることに、驚くほど素直だ、素直すぎる、というようなコメントをしています。私からすれば、これは日本ではよくあることだなあ、と思います。面倒なことにはなるべくかかわらないようにする、あるいは、問題がおきたらその問題の場自体を隠蔽する、という反応です。じつに日本的なはからいかたなので、アメリカ人は異様にうつるのでしょう。でも、こうした問題や対立を嫌う傾向が、上で述べたような”ソフトな統制”の駆動メカニズムの一部なのではないか、と私は思います。こうした形での統制については第二次世界大戦後にずいぶんと多くの学者や研究者が頭を悩ませ、いろいろな論考がありますが、いまだにクリアーな定義はないのではないでしょうか。これは日本の人間が考え抜くべきテーマのひとつだと思います。

*1:"このような「下からの」ナショナリズム、いわばポピュリズム型運動を、たとえば「自民党・文部省が一貫して企ててきた教科書攻撃の一環」「右翼」「ファシスト」などと攻撃しても彼らには届かないであろう。なぜなら、こうした運動の参加者には、自分たちが、「体制側」であるという自覚も、「右翼」的な「イデオロギー」を信奉しているという意識もなく、「健康」な「常識」=「リアリズム」に従っているだけだと思っているからである。" 小熊英二『「左」を忌避するポピュリズム』世界1998年12月号より


nippyo
『テロリストという言葉を使っているかどうかは問題ではありません。クレモント氏が記事の中で繰り返し取り上げた放火や脅迫は疑いもなくテロ行為であり、その実行者はテロリストです。古森氏の記事がそのような活動の「最新の攻撃」だと決め付けたんですから、テロリスト扱いしたのと同じです。

恋愛関係を証明しろと言うのと同じだとのこと。
そうです。そのような因果関係のはっきり証明できないことを断定的に書くべきではないということです。

民主主義社会ではさまざまな意見が入り乱れています。どういう意見を表明しようとプライバシーに触れたり暴力行為を教唆するものでない限りすべて自由であり、なんら非難すべきことではありません。ある人と似通った思想を持つ人がテロを起こしたとしても、それはその人のあずかり知らないところです。kmiuraさんはそのことをもってして意見の表明を控えろとおっしゃるのですか。それこそ言論統制的考え方だと思いますが。

アジアタイムズの記事はワシントンタイムズのものとよく似ています。ただクレモント氏のような乱暴な決め付けをしていません。ワ紙のほうが後だったかな。だったら盗作くさいですね。

蓑田胸喜のやったというイェロウジャーナリズムというの具体的にはどのようなものなんでしょうか。それと古森氏の記事との間にどのような共通点が見出されるのでしょうか。』

kmiura
『”古森氏の記事がそのような活動の「最新の攻撃」だと決め付けたんですから、テロリスト扱いしたのと同じです”というのは間違ったクレモント氏の記事の読みかただ、と私は思います。テロリストか否か、という問題のたてかたは事態を単純に見すぎています。たしかに今の世界では、某国の大統領をはじめ、”テロリストか否か”という明快なラベリングが跋扈しています。二元論は確かにとてもわかりやすい。とくに今の世の中のように情報が消化しきれないほど流通している中では、白か黒か、というバイナリー思考はものごとをすっきりさせるのに有効です。しかしながらそのことには弊害もある。わかた気にはさせてくれるけれど、その理解した内容は現実とは程遠いのです。こうしたバイナリーフィクションの明確な結果がたとえば今のイラクの内戦状況です。テロか否か、という単純思考が複雑なバランスを土足で踏み破ったのです。
私たちはもう少し世の中の複雑さをもう少しそのままの複雑さで考える必要がある。これまでにも説明したように、テロリストもいれば、アジテーターもいるわけです。しかもそのアジテーターの中にもさまざまなレベルのアジテーターがいる。実行犯の耳元でけしかける輩もいるかもしれないし、社会全体の雰囲気、すなわち世論を、例えば加藤紘一の実家を放火した犯人は「義挙である天誅である」というような見方にもってゆこうとするアジテーターもいるかもしれません(実際にネット上ではそうした意見も散見します)。こうしたさまざまなレベルの活動が存在し、同期して行動し、マスメディアを介して互いに黙ってうなずきあっている(らしい)ことの全体をさして「右翼の活動」と記事ではまとめられているわけです。このことをもって、コモリ氏をテロリスト扱いした、と判断するのは拙速ではないでしょうか。なぜならば、テロリストであるかないか、という問題の建て方をすると、中間のグレーゾーンを捨象してしまうことになるからです。
nippyoさんの次の意見は「コモリ氏の言説と、実際に起きているテロリズムはおのおの独立した事象である。したがってそこに関係性を見出す記事は書くべきではない。」ということです。この考え方に対しては、いくつも反論をすることが可能なのですが、いくつか書いてみましょう。
まず純粋に論理的に考えてみましょう。コモリ氏の言説と、実際のテロ行動が完全に独立している、と証明することは可能でしょうか?例えば三文週刊誌の記事のようですが、次のような可能性もあります。「コモリ氏はとある日本右翼黒幕の広報係としての任務があり、その指示に従って記事を書いている。一方でおなじ黒幕がテロの実行の支持も下している」。もちろんこのような陰謀説は考えにくいことでしょうが、可能性としてはなきにもあらずです。もちろんほかにもさまざまな可能性がありますが、nippyoさんの考え方にしたがえば、こうした関係性が全くない、ということも確認してから上のように判断すべきであるということになります。
次に、「因果関係が事実でないならば書くべきではない」とことですが、このクレモント氏の記事は「opinion」です。この事象とこの事象の間に関係性を見出すことができるのではないか、という記事を意見として書くことができないならば、opinionのページは白紙とするしかありません。意見は、蓋然性に基づいて書くことでいっこうにかまわないのです。なぜならば、意見は読まれるためのものであり、その妥当性を解釈するのは読者ひとりひとりだからです。
nippyoさんのコメントを読んでいて私が思うのは、どうやらnippyoさんは、批判をすることと、禁止
することを混同しているらしい、ということです。クレモント氏の記事は、コモリ氏の行動を批判していますが、それをしてはいけないと訴えている記事ではありません。この点をなにやら「コモリ氏はそうしてはいけない」とまでnippyoさんは解釈しているように見受けられます。また、私の今回の一連の文章に関しても、私はコモリ氏に批判的ですが、一度たりともコモリ氏は「意見の表明を控えろ」と思ったことも書いてもいませんが、なぜかその批判をnippyoさんは「控えろ」といっていっている、と一方的な解釈をしています。くりかえしますが批判は禁止の要望ではありません。指摘しているだけなのです。
批判はどのような批判であってもオープンであるべきです。もっと踏み込んでいえば、誰がどのようになにを書こうが私はいっこうに構わないと思います。因果関係が証明できていない、とおっしゃいますが哲学的に考えればあらゆることの因果関係は、物理法則でさえ証明することはできないのです。そこで重要なのは、私やnippyoさんなどの読者それぞれがその文章をどのように受け取るか、ということでしかない。真摯な文章から電波な文章まで、それを読んでその内容にどこまで同意するか、という判断は個々人にまかされているのです。表現の自由とは、書く人間の人間の自由だけではないのです。読む人間の判断の自由でもある。私から見れば、nippyoさんの文章の読み方は、その文章を読むというよりも、自分の中にある知識に合う部分だけをピックアップしてつなぎ合わせているだけのように思います。これは「読む」こととはいえません。進歩がないからです。(繰り返しますが、これが批判です。「黙れ」と言っているのではありません)。
そこで、私は記事の妥当性を判断するための材料として、蓑田胸喜のことを書き添えました。最後の質問に対する答えになりますが、もしこの人についてこれまでしらなかったのならば、関連する文書を少し読んでみたらいいのではないかと思います。ウェブ上でわたしがすぐにみつけたのは、
http://www2s.biglobe.ne.jp/~fdj/minoda.html
あたりでどんなことであったのか、知ることができると思います。もうすこし詳しくしりたいならば、立花隆氏の「天皇と東大」を読んでみて下さい。分厚い本ですが文章は読みやすいです。大きい図書館にいけば、蓑田本人の全集をみつけることもできるかもしれません。
最後になりますが、おおもとの問題について、以上の私の文章を踏まえた上で意見を述べておきます。コモリ氏がなしたことは、タマダ氏の文章そのもののまともな批判(テキストの批判)ではありません。片言節句の揚げ足取り、レッテル貼りです。なにやら「テロリスト」レッテル貼りとよくにていますね。そしてなによりもタマダ氏の態度を問題にしているわけです。公僕たるものがお上にたてつくなどけしからん、ということです。事実上タマダ氏を名指しで「首にしろ」といっているわけです。これは私が上に述べたような批判というよりもパージです。「公開質問状」とは名づけられていますが、事実上の解雇要望書です。私が蓑田胸喜を連想したのは、こうしたやり口です。言説を生業とするものとしては、一番卑怯で筋の通らぬやりかただと思います。』

#
nippyo
『ワ紙の記事で取り上げられた放火や脅迫をなした者がテロリストであることには疑問をさしはさむ余地がありません。これは人を殺した人を殺人者と呼ぶのと同じです。はっきり二元論で割り切れるものです。もちろんそれらを「義挙である天誅である」と正当化しようとする非常識な人もいるでしょう。彼らは心情的なテロリストです。kmiuraさんは自分が嵌まり込んだ袋小路を脱出するために、仮にでも右翼テロリストの側に身をおいてしまったことにお気づきでしょうか。
蓑田胸喜がやったことを具体的に示して古森氏の記事と比較することをお願いしておいたのですが。
古森氏は誰の辞任も要求していません。あの記事は読む人の思想や立場によって賛成する人もいれば反対する人もいるといった類の意見です。たいして、クレモント氏の記事は明らかに事実に反しているのです。それを正当化しようとすれば、明らかなテロ行為を「テロかどうかわからない。」「レッテルはりだ。」「義挙である天誅であるというような見方もある」といったテロリストを擁護する発言をせざるを得なくなってしまうのです。』


kmiura
『論証ではなくて、印象ですね。あと、クレクレ君はやめましょう。自分で調べてください。』


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  1. 2006/09/01(金) 18:42:33|
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